形あるものが君なら day2
「リュウ?」
寝る時間をとうに過ぎているがリュウは小さな手で一心不乱、と言っていいほど夢中に絵を描いている。
「明日起きれないだろ」
ソウタの声が聞こえているのかいないのか分からないほどの無反応を貫くリュウは、鉛筆を掴んで離さない。
ソウタは少しため息をつきながら、リュウと机を挟んで向かい側に座った。
絵を見てみると、何を描いているのかは分からないが不思議とまとまりのある絵だった。
「おとうさん」
不意にリュウは鉛筆を紙に走らせるのをやめた。
「どうした?」
ソウタは片手で缶ビールを開けながら何かを訴えようとするリュウを見つめた。
「おにぎりのお姉ちゃん」
おにぎりのお姉ちゃん。ソウタは一度リュウの言葉を心の中で繰り返し、今日の昼に出会った彼女のことを言っているのだと理解した。
「お姉さんがどうした」
缶ビールを傾ける。口の中で弾ける泡がソウタを生き返らせる。
「..お姉ちゃんは、どんなかたち?どんないろ?僕とはちがうの?お姉ちゃんはなんさい?お姉ちゃんは...」
リュウは息を切らしながら話した。
「お父さんもよく知らない」
「...リュウ、またお姉ちゃんのごはん食べたい」
そんなことを言われても、とソウタは思った。また缶ビールを傾ける。
「おいしかったな」
リュウはそう呟くと、鉛筆をとって絵の続きを描いた。
缶のまわりに付いた水滴が机に丸い跡を付ける。そんなことに少しだけ、嫌気がさした。
...
暑い。
午後2時。一日のうち最も暑くなる時間になった。キコは開けていた窓を閉め、冷房を付ける。
グラスに水を入れ、また元のように机に戻る。
在宅での仕事は、キコにとって幸せなものだった。人に合わせる必要もなく、無駄な気遣いも必要ない。のびのびとできる自宅が唯一の居場所であるキコにとって、新しい生活様式なるものは神様が与えてくれたプレゼント同然だった。
チャイムが鳴った。
最近の宅配は印鑑が必要ないので、すぐに玄関へ向かい扉を開ける。
「はい」
「田川急便です、こちらお間違いないでしょうか」
背が高く、どこかで聞いたことのある声をしていた。整った顔はほんのり赤くなっていて、キコを見つめる目はどこか焦点が合っていなかった。
...あぁ、昨日の。
「大丈夫です」
荷物を受け取り、確認する。こちらにも気付くかと思ったが、そんな気配は少しも見せない。
「お待たせ致しました。失礼します..」
ぼんやりとした瞳で立ち去ろうとした彼は、突然その場に倒れ込んでしまった。
「え、ちょっと」
荷物を床に置いて彼の体を揺する。
「あの、あの!大丈夫ですか」
あ、揺すったらだめなんだっけ、どうすればいいんだっけ、こういうとき。キコは頭が沸騰しそうになりながら色々なことを考えた。とりあえず、救急車を呼ばないと。
キコが携帯を持ち出したタイミングで、彼はゆっくりと瞼を開いた。
「大丈夫ですか?」
キコは起き上がろうとする彼の肩を支えながら尋ねる。
「大丈夫です、すみません」
「ちょっと待ってて下さい。今お水持ってきます」
「いや、あの」
キコはすぐに家に戻ってグラスに氷を入れ、並々に水を注いだ。
キコがもう一度扉を開けると申し訳なさそうにたたずむ彼の姿があった。
「これ、飲んでください」
彼は申し訳なさから視線を落としているためか、私の方を見ようとはしなかった。
「すみません、ありがとうございます」
彼はグラスを受け取ると、水を一気に飲み干した。飲み干した勢いで息を漏らす彼と、今日初めて目が合った。
「え..」
彼は目を見開いて言葉を失っていた。
「あの、昨日の..」
「そうです」
「すみません、気が付かなくて。昨日も今日もご迷惑を..」
「いえいえ、迷惑だなんて。こんな暑い天気ですから、水分補給は必要ですよ」
「..飲み物を買うことも忘れてました」
空になったグラスを受け取る。
滝のように彼から流れる汗が、彼の苦しさを表しているようだった。
「あの、本当にありがとうございました。お礼をしたいんですけど、仕事に戻らないといけないので」
「あ、ちょっと」
キコは自分自身でも不思議だった。基本、他人に対して関心のない自分が、2度顔を合わせただけの男にお節介を焼こうとしていること。
「もうちょっとだけ待ってて下さい」
キコはまた急いで部屋に入る。洗いたてのマフラータオルと、冷蔵庫で冷やしておいたお茶を取り出す。ついでに先程買ってきた塩分を摂取するための飴も掴んで急いで玄関に向かう。
「これ」
彼は差し出されたそれをとりあえず受け取るも、戸惑いながらキコを見つめた。申し訳ない、受け取れない、そんなことを今にも言い出しそうな彼に先手をうつ。
「申し訳ない、とかじゃなくて」
キコは諭すように呟いた。
「..元気でいて欲しいんです」
彼の目には少しだけ戸惑いがあったけれど、キコが微笑むと、彼も小さく笑った。
「元気、出ました」
笑顔でそう話す彼に、幸せを感じる。自分が他人に与えた幸せを、目の前で感じたからだろうか。
「お名前、聞いてもいいですか?」
彼からそう言ってもらえてよかった。キコは久しぶりに自分の心が開かれていくのを感じている。
「ヤナイ キコ、です」
「ヤナイ キコさん」
「そちらは..」
「トガシ ソウタです」
ソウタ、どんな漢字だろう。爽やかな雰囲気によく似合った名前だと思った。
「あの、本当にありがとうございました」
そろそろ、お互い仕事に戻らなければならないためソウタは挨拶をした。
「いえいえ」
キコは何度か笑いながら会釈をする。キコは、笑顔でいるのが辛くないのはいつぶりだろうと思った。ソウタは会釈をし、最初とは見違えた姿で去っていった。
辛い人生でありませんように、苦い人生でありませんように、少しでも彼にとって幸せなことがこれから起こりますように。
扉を閉める瞬間に、この時間を終わらせるのが少し惜しい気がした。