形あるものが君なら day3

針の音がよく聞こえる。

リュウを寝かしつけたソウタは寝室からリビングに戻り、ソファーで深く息を漏らした。

ソウタは瞑っていた目を開け、ソファーの前に置かれた小さなテーブルに視線を向ける。そこには、何枚かのチラシと共に高校の友人から届いた結婚式の招待状があった。

ソウタはまた目を閉じ、今度は深くため息をつく。

 


『元気でいて欲しいんです』

 


突然思い出したのは彼女の言葉だった。ヤナイキコ、という名前だったことをソウタは改めて思い返した。

「元気で..」

ソウタは天井に向けて呟く。ダイニングテーブルの端に置いたタオルに目を向ける。親切な彼女が、ソウタのために貸してくれたものだった。

ソウタは立ち上がり、向かったテーブルでタオルを手に取る。

「返さなきゃだよな」

自分を納得させるために声に出す。そうだ、返しに行かないといけない。お礼もしなければ。

タオルを置いて、テレビをつける。何だかいつもより、テレビが面白く感じられた。

 


..

 


「私はどーしたらいいんですかあ」

「だから、早く別れなさいって何回も..」

「別れたくないんですもん!」

「はあ、もっと頭使って恋愛しなさい。いい?好きなんて感情は恋愛に1番不要なんだから」

「理解できません..」

女の恋愛相談は常に一方通行だ。噛み合っていないことを理解してもなお続く会話は、日常になった。

「キコさんはどう思いますか?」

悩める女は無責任に話題を振りまく。

「私は」

同期と後輩、どちらもが私に視線を寄越す。本当は昼食を進めたい。

「ユイが別れたくなったら別れればいいし、別れたくないなら、別れなくていいと思う」

キコ以外の二人がゆっくりと目を見合わせる。

「そんなことはいいのよ」

「分かってますよそんなこと」

ため息をつくように呆れた顔でキコを見る二人にキコも溜息をつきたくなる。

「だから言ってるでしょ。私に恋愛相談しないで」

冷たいんだから、と後輩がこぼす。キコは気にせずに箸を進める。

二人はその後も話を続けていたが、キコは黙って聞いているだけだった。

 


...

 


「右から、グラスに入ったオレンジジュース、大きい皿にパンケーキ、その下にフォーク。パンケーキはお父さんが切ってやるから」

「はーい」

家の近くに出来たこのカフェは立地があまり良くないからか、それなりに空いていた。日曜の昼だというのに店内には空席がある。

「よし」

リュウの分のパンケーキを1口サイズに切り終わるとソウタは呟いた。

「食べていい?」

リュウはうきうきとしてソウタにきいた。ソウタは頷きながら、いただきますしてからな、と笑う。

「いただきまあす」

リュウは器用にフォークを持つとパンケーキを食べ始めた。

ソウタはリュウの姿を見て微笑むと、皿に落としていた視線を上げた。

 


「あ、」

 


少しだけ距離をおいた席に座っていたのは、例の彼女だった。ここまで偶然が重なることはあるんだろうか。なんとなく心拍数が上がるのを感じた。

リュウは美味しそうにパンケーキを食べている。彼女とその友達と見られる二人組はもう食事を終えたのか、コーヒーを飲みながら少し暗い雰囲気だった。

「ねえ」

責めるような言葉を掛けているのは、友達の方だった。彼女は気まずそうに目線を落としたまま。ソウタはあまり視線を寄越さないようにパンケーキを食べながら、無意識に聞き耳を立てていた。

「もうやめな」

リュウと自分が立てる皿とフォークの音、かすかに流れる店内のBGM、どれも二人の雰囲気とは合わなかった。

「わかってる」

キコはコーヒーを一口のむ。ソウタは二人が一体なんの話をしているのかよく分からなかった。

「ユキトくん、キコに無理させたくないって」

キコは黙って話を聞いている。

 


「..人に恋愛感情を抱けないことは、何も悪いことじゃないんだよ?」

 


ソウタはパンケーキを食べる手を止めた。

ソウタは目線を上げてキコを見つめる。

「..普通じゃない」

キコは掠れた声で呟いた。ソウタにはギリギリ聞こえるくらいの声だった。

「普通になりたいから、ユキトくんを利用するの」

ソウタは、まだ動けないままだった。いわゆる「好きな人ができなくて困っている」という種類の内容ではないことが分かる。

ソウタの心拍数は上昇した。その反面で、感情は鎮火されていった。

「..そうかも」

「お父さん」

不意にかけられたリュウの声に驚く。

「美味しいね」

リュウの言葉に乾いた口でそうだな、と呟いた。